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「姫路古墳ロード」を歩く



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平成24年7月8日(日) メンバー 私だけ

見野の郷交流館前バス停〜見野古墳群〜見野長塚古墳〜火山古墳群〜
中鈴山古墳〜宮山古墳〜坂元山古墳群〜阿保古墳群〜四郷中学校前バス停


「姫路古墳ロード」を知ってるか

 実は私も一週間前まで知らなかった。なにか面白いものはないかと、相互リンクしている「穴場の姫路」を見ていると「見野古墳群」と題した古墳訪問記録があり、調べていくと、周辺の古墳をつなぐ全長10kmの「姫路古墳ロード」が設定されていること知った。

 「見野古墳群保存会」が始めた見野古墳群の整備活動の一環として、周辺の古墳に対しても藪を切り開くなどの整備を施して観察可能な状態までもっていき、道中に案内板などを整備し、2009年(平成21年)1月18日に第一回の「姫路古墳ロード歩こう会」を開催し、その後毎年1月に行われている。

「姫路古墳ロード」マップ(画像をクリックすると大きくなります)

 今回の「姫路古墳ロード」の舞台となるのは、姫路市の東部を南北に流れる市川の東岸、山陽新幹線と姫路バイパス、そして200mにも満たない低山というか丘に挟まれた、田畑と集落が混在する地域だ。

 コースのスタート地点となる「見野の郷交流館」に駐車場もあるが、気分を出すために、姫路駅北口から毎正時ごとに発車する見野古墳群行きの神姫バスに乗車する。乗車時間は23〜24分、料金は230円だ。

 「姫路古墳ロード」のパンフレットが置かれている見野の郷交流館の開館時間に合わせて、姫路駅発10時のバスに乗り見野の郷交流館に到着。

10:34
 パンフレットを入手し、館内の展示物をさらりと見て、「姫路古墳ロード」探索を開始する。

 ここで断っておくが、私はけして歴男でも、まして見た目から分かるように歴女でもない。学生時代は日本史・世界史ともにまったく関心がなく、事象の発生した年号を覚えることなど無駄なことと、学習を放棄してきた歴史を持っている。つまり今回の「姫路古墳ロード」を歩くは、古墳に対して興味を持って歩くのではなく、歩くこと自体が目的であって、古墳の存在はおまけのようなものだ。

見野の郷交流館から歩き始める

10:38
 見野の郷交流館から反時計回りに裏手に回りこむと、真新しい擁壁が現われる。そこに立て看板が1枚ガードレールに立てかけられ「姫路古墳ロード」と表示されている。この看板が「姫路古墳ロード」の道案内役で、要所要所に設置されている。ただ惜しむらくは矢印表示以外の情報はなく、次の古墳の名前やそこまでの距離などの最低限でも必要となるものを得ることはできない。

 つまり同じ立て看板にカッティングシートの矢印を貼っただけで、お金と手間だけはかかっているが、もう一つ歩く人に対する愛情をこめて欲しかった。

「姫路古墳ロード」案内板


見野古墳群

10:40
 見野の郷交流館から見野古墳群まではすぐだ。古墳は20基ほどあるようだが、私は古墳愛好者ではないので目に付いたものだけの紹介にとどめておく。

 この楽しげな看板は、各所の古墳(群)の側に設けられていて、姫路市出身・在住の版画家、岩田健三郎先生によるものだ。愛らしく、「姫路古墳ロード」のシンボル的な存在で、誰からも文句など出ようのないものと確信するが、あえて言う。「古墳より目だってどうする」と。

 
版画家岩田健三郎作の古墳(群)名称表示板

見野古墳群

 平成18年3月24日付け姫路市指定重要文化財。見野古墳群は、戦前から知られる古墳時代終末期(7世紀代)の群集墳で、10数基の古墳で構成される。比較的大型の横穴式石室を有し、市川下流域東岸では代表的な古墳群である。

 中でも6号墳は1つの墳丘に2つの横穴式石室を持つ珍しい形態で、市内では前方後円墳(見野長塚古墳)を除いて類例がない。また10号墳は封土がほとんど失われ石室の巨岩が露出しており、奈良県明日香村の「石舞台古墳」を彷彿させる特徴的な古墳である。

 地元では、6号墳を「めおと塚」、10号墳を、「姫路の石舞台」と呼んでいる。

 なお、南東約650mには白鳳時代創建の見野廃寺が位置し関連性が推測される。

平成18年5月 姫路市教育委員会


 背後に竹林の迫る4号墳、今でこそきれいに整備されているが、竹薮と草木に覆われ近づくこともできない時代が続いていただろうことは、容易に想像できる。

 なお、写真に写りこんでいるのは私であるが、私の類まれな絶大なる自己顕示欲を満足するためではない。単純に古墳の大きさを実感してもらう比較対象として写っているだけだ。

見野古墳群4号墳

4号墳の羨道・玄室の床には水が溜まり、中に入ることは出来なかった。でも墳丘も何とか形ばかりだが残り、石室の石組みもしかっりしていて、古墳らしい古墳といえる。

見野古墳群4号墳 玄室には水が溜まっている

 「5号墳、ん、これでも古墳なの」と、ただの大きな石がごろんと転がっているとしか見えず、見野古墳群の中にあってこそ古墳と判定されたのだろうが、そこら辺にあったらそれこそただの石だ。

 巨石の運搬手段は修羅を使い人力に頼ることしかなかった時代に、遠くから石を運ぶことよりも、近くの墳墓から石を抜き取ることのほうが多かったのではなかろうか。そして使い道のない石だけが残された結果がこれではと思う。

 はたまた、盗掘から逃れるため、竣工当初から荒れた墳墓を装うために地上部はこんな風に、地下には古代エジプト王家の地下神殿以上のものが埋もれているかもしれない。

見野古墳群5号墳

 「11号墳、ん、庭石に欲しいな」と、なんてことの無い石だ。見野古墳群が築造された古墳時代終末期(7世紀代)は、最古の木造建築物とされる法隆寺が創建された時代と重なる。一方に精緻を極めた木造建築物が存在するのに、わずかに加工しただけの自然石を用いただけの墳墓が同時代に存在した不思議さ。

 400年間も続いた古墳時代なのに、古墳の素材石を加工する技術が発達しなかったのはなぜなのだろう。プレ・インカ時代(7〜12世紀)のクスコの「カミソリの刃1枚でさえ入らない石組み」まで石材加工技術を昇華させた同じ人類とは思えない。

見野古墳群11号墳

 「14号墳、ん、ちょっと古墳らしいかな」。石室が崩れ、墳丘が流されてはいるが、「これは古墳です」と言われれば、「そうですね????」と返事できるくらいではあるが、まあ古墳だな。

見野古墳群14号墳

 さて、見野古墳群が見野古墳群と呼ばれている源の一つ、「見野古墳群6号墳・夫婦塚」だ。一つの墳丘に二つの独立した石室が存在する世にもまれな古墳だ。両石室とも破損がひどくトンネルと化しているが、こんな古墳見たことがない。

見野古墳群6号墳「夫婦塚」

見野古墳群6号墳「夫婦塚」

 6号墳は、1つの墳丘に2つの横穴式石室が並列する双室墳(そうしつふん)です。この構造から地元の人は6号墳を「めおとづか」と呼んでいます。このような事例は前方後円墳を除くと、市内では他に確認されておらず、全国でも約30を数えるにすぎません。6号墳は、2006年夏と2007年夏の2度にわたり発掘調査されました。破損により、墳丘の形や規模は明らかになっていませんが、東西石室は同時に構築されたことが確認されました。

 両石室は6.7m離れ、ともに南に開口しています。東側の石室は奥壁と羨道部(せんどうぶ)が破壊されており、左方袖式で、石室の全長は9.5m、幅は奥壁で1.6m、入口で1.4mあります。床面には河原石が敷き詰められていて、石室内の南西部には小型箱式石棺1基が据えられていました。東石室からは、須恵器・土師器・金環・銀環・切子玉・管玉・ガラス小玉・鉄刀・鉄やじり・馬具・刀子などが出土しました。

 西側の石室は玄室と羨道部が破壊され、無袖式で、石室の全長は8.5m、幅は奥壁付近で1.5m、入口で1.2mです。小型箱式石棺が2基が据えられていました。西石室からは、須恵器・土師器・銀環・勾玉・切子玉・管玉・小玉・鉄刀・鉄やじりなどが出土しました。2つの石室の遺物はどちらも6世紀末から7世紀初頭に位置づけられるもので、大きな時間差はありません。

 なお、東石室から出土した蓋付きの小皿の杯身(つきみ)から、イタチなどのものとみられる長さ3cm前後の足跡が見つかりました。焼く前に屋外で乾燥させていたところ、踏まれて付いたとみられ、非常に珍しいことです。

10:57
 車道を挟んだ向かいにある9号墳。これも古墳らしくない存在だが、岩の下面が平らに加工されているようだ。

見野古墳群9号墳

 見野古墳群の最後は10号墳・姫路の石舞台だ。奈良県明日香村の石舞台古墳になぞられ「姫路の石舞台」と呼ばれている。石舞台古墳の全国区的有名さと比べて姫路の石舞台は知る人ぞ知るだが、意外にも石室の規模は大差ない。ただ用いられている石材の厚みに雲泥の差があるため、その迫力は大違いだ。

 封土の全てが失われ、石室を構成しただろう石材の多くも抜かれスカスカの石室だけとなっているが、そのことにより石材の組まれ方がよくわかる。でも天井石が側壁の上に直接載せられているわけではなく、漬物石ほどの大きさの石を介して点接触で載っているのは本来の姿ではないと思う。

見野古墳群10号墳「姫路の石舞台」

見野古墳群10号墳「姫路の石舞台」

 見野古墳群は市川東岸の代表的な古墳群であり、通有の後期古墳群と比較すると、比較的大型の横穴式石室をもつ古墳で構成されています。とりわけ、10号墳は最大で。築造時期は見野古墳群の中で最も新しいとみられています。

 10号墳の封土(古墳を築きあげるために盛り上げられた土)はほとんど失われていて、巨岩を使用した大型の横穴式石室がむきだしになっています。その姿は奈良県明日香村の石舞台古墳を連想させ、「姫路の石舞台」としてよく知られています。

 全長が10.86m、玄室の長さ4.2m、幅が2.15m〜2.42m、高さが1.4m〜1.78mです。羨道(せんどう)の幅は2mあります。玄室の天井と隔壁は1枚岩で構成することを指向しており、この構造は、7世紀中頃に築された最も新しい段階の石室であると考えられます。袖石として柱状石が立てられていますが、袖幅は40cmと狭く、玄室と羨道には羨門柱石ともいうべき大型石材が縦積みにされています。

 10号墳の力強い姿は見るものを魅了し、石室本来の姿を視察するには格好の教材と言えます。見野古墳群の被葬者は不明ですが、見野古墳群の南東650mに存在した見野廃寺(650年頃白鳳時代創建)を支えた有力者と推定されています。



見野長塚古墳

11:16
 見野古墳群の次は見野長塚古墳へと向かう。集落の中での自分撮り(三脚・カメラをセットし赤外線リモコンシャッターを用いてる)は、あまりにも怪しすぎるため、ほんの数枚しか撮らなかった。

 ここは312号線を渡り、本郷公民館を過ぎた先の、「姫路古墳ロード」マップによれば右折すべき交差点なのだが、案内板は直進せよと命じている。マップと案内板のどちらかを信用すべきかはと問われたら、即座にマップと答えるのだが、あえて向きを変えられたと思われる案内板に従うことにする。

本郷公民館東、教岸寺南東の交差点
「姫路古墳ロード」マップではここを右折
おそらく案内板は電柱の左側に立てられていたのだろう

11:24
 通りかかったおっちゃんに長塚古墳の場所を聞き、なんてこともなく古墳前に到着。

 長塚古墳は、青々とした田んぼの中に浮かぶ島のよう。今の時期は近づくことは出来ません。

田んぼの中の見野長塚古墳

見野長塚古墳(兵庫県指定史跡 平成7年3月28日指定)

 見野長塚古墳は、6世紀前半に造られ7世紀初頭に終焉を迎えた市川東岸の最後の首長墓である。墳丘が後世の耕作などで大幅に改変され、現況は南北22m、東西5〜8m、高さ1.2mを測る。

平成6・7年度に発掘調査がおこなわれ、全長が約34mの前方後円墳であったことが判明した。後円部の直径は約22m、前方部の全長は約12mである。ほぼ南北方向に主軸をもち、後円部は北側にある。周溝は幅5〜7mで後円部の東側で途切れることから、この部分に土橋が想定される。土橋北西約5mの周溝西端で、須恵器の器台と装飾付須恵器壺が1個づつ立てかけられていたことから、古墳構築後に須恵器を使用して祭祀を行っていたと思われる。

 主体部は前方部と後円部に1基づつ認められ、ともに東側に開口する片袖式の横穴式石室である。前方部の石室は大正時代に調査され破壊されていたが、後円部の石室は基底部付近がわずかに遺存しており、装飾付須恵器が6個体分以上出土したことが注目される。

 遺物は、須恵器・土師器・石製品・鉄製品・玉類・銅鏡・土師質の埴輪など多数出土している。

平成20年3月 姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会

 長塚古墳近くの道端にお地蔵様が祀られている。お堂入口左右を飾るレンガ積がアクセントになっているのが施主のこだわりだろうが、このよくあるタイプのコンクリートブロック積みの地蔵堂はなんだかなあ。もっと信仰心あふれるコンセプトデザインはないものだろうか。

長塚古墳近くの地蔵堂
目が光っているように見えるのは前に吊るされた鈴です


火山古墳群

11:31
 長塚古墳の北側の道を東へ進むと、南山とも火山とも呼ばれる山に突き当たる。有限会社瀬賀商店(有機質肥料・発酵肥料製造販売)手前に、これまでになかった石材製の立派な石標「火山古墳群」が立てられている。業種のためか気にならないほどの少しの臭いと、電線にはたくさんのカラスが止まっている。

平成24年3月に四郷町連合自治会により建てられた
「火山古墳群」石標

11:34
 切削加工業の喜多工作所前の自販機で飲料水を仕入れ、瀬賀商店とれんが製造業の有限会社開成産業の間の道へと分け入る。

見慣れた案内板だがこの先の道は厳しい

11:39
 この先の道は、「姫路古墳ロード」マップで火山の西山裾に沿うように点線道が標示されている。マップの実線道は、道幅に関係なく車が通れようが通れまいが実線道で標示されている。しかるにここだけが点線道になっている。

 なにが待ち構えているかと、草生した広場を進むと見慣れた案内板が現れほっとするも、その先を見てぎょっとした。竹がばたばたと倒れた先に、道らしきものが見え隠れするが、本当にこの先が「姫路古墳ロード」なのかと信じられないような光景だ。

 そして、冬場を除き竹薮に待ち構えているのは、やぶ蚊だ。「いやだな、行きたくないな」という思いが強いが、せっかくここまで来たんだと、勇気を振り絞って進むことにする。これまでの「姫路古墳ロードを歩こう会」が、1月に集中して行われてきた訳の一端が、この竹薮通過の道の存在が大きいと思う。

火山西山裾の破線道はここから始まる

11:43
竹薮(けして竹林ではない)の中に続く道は、入口の雰囲気とは違い、常に付きまとう大量のやぶ蚊以外は、歩く分には何も問題はない。だが、それゆえ冬場以外にこの道を通るのは推奨しない。そして、写真では明るいが晴れた日にもかかわらず薄暗く、輪をかけて放し飼いかそれとも野良犬がうろつき、一人歩きは勧められない。

気持ち悪く歩くのが不愉快な
昼なお暗い竹藪を行く道

11:46
 明確な道は右へと続いているが、「姫路古墳ロード」案内板は左の道へと誘っている。右の道はどこへ続いているかと少し進んでみると火山(南山)へと登っていくようで、案内板に従い左の踏み跡薄い道へ入る。

ここは案内板どおりに左に入る

11:49
 今度も直進のほうが明確な道だが、案内板は右に入れと言う。率直に従う。

今度は右に入る
案内板がなくては絶対に迷ってしまうな

11:51
 右に入ったすぐ先に古墳があった。火山古墳群11号墳だ。玄室奥壁が欠けているが人目で古墳と分かる。ここでの撮影中に、腕や首筋をやぶ蚊に刺されまくられ、ぼこぼこになってしまった。世の中には蚊に刺されにくい人がいるようだが、私は蚊に好かれる性質らしい。

火山古墳群11号墳

11:56
 さらに進むと案内板が現れ、太い直進矢印は「コース」、細い右方向矢印は「古墳あり」と手書きで書き加えられている。つまり、右の古墳は行って来いなのだな。

行きたくないけど、右手の古墳へ行って来る

11:58
 少し登った先にあるのは10号墳で、石室の中は真っ暗で、中の様子を伺うことは出来ない。

 帰宅後にネットで検索してみると、石室は比較的よく残されていて、中には組み合わせ式箱式石棺が残っているという。古墳といえば空っぽの石室しか思い浮かばないが、石棺が残っているのを事前に知っていたら、中の様子を撮影するのだったと後悔した。だが私はビビリな性格でもあり、事前知識もなく真っ暗な石室の中を撮影して、一瞬のフラッシュの光の中に予想を超えたものを見てしまったらと思うと、撮影することなどとても出来ない。

火山古墳群10号墳
石室の中には石棺が残っているという

12:03
 ようやく破線道の終点の大年神社に辿り着いた。もうこれでやぶ蚊に悩まされなくなると思うと嬉しくなってしまった。小さなことの中に幸せを感じた一瞬だった。

火山破線道の終点は大年神社


中鈴山古墳

12:25
 続いて、国道312号線を挟んで火山の反対側にある小さな丘、中鈴山にあるはずの古墳だが、パンフレットには尾根上にあると言うだけで、明確な位置は分からない。まずは中鈴山東側の墓地へ入り高みを目指すが、古墳がどこにあるのか分からない。

中鈴山東側の墓地から攻めるが古墳は分からない

12:32
続いて舗装参道を登り天満宮境内を探索するも、石垣が邪魔をして尾根に乗れない。すでに半分いや100%諦め、この古墳はパスしようと決めた。

天満宮境内からもだめ

12:36
 でも舗装参道を下ると、トイレのある草生した「児童公園」がある。目を凝らすと、長らく訪れる児童もなくさびしそうにしている滑り台の奥に、なにか白い看板様のものがかすかに見えるような気がした。

この草生した児童公園に
さらに奥があるとは思わなかった

 草を掻き分け児童公園の奥へ進むと、回転遊具の奥にそれを、見つけてしまった。

ここまでほって置かれた児童公園もすごいな

 「中鈴山古墳」、「姫路古墳ロード←」のそろそろ懐かしくなってきた案内板が竹薮と化そうとしている児童公園奥のフェンス際に立っていたのだ。この時すでにやぶ蚊に攻め始めながらも、小さな幸せに胸がほわぁとなる一瞬だった。

児童公園奥に案内板を発見

12:42
 後は、適当に緩やかな尾根を登っていくと、ありました。中鈴山古墳が。

 ここが羨道の入口とは思えないようなところに穴があり、中は真っ暗。パンフレットによれば円墳で、石室の中には箱式石棺があると言う。でも、ここも火山古墳と同様な理由から内部の撮影を行えない

中鈴山古墳


宮山古墳

13:09
 中鈴山古墳の次は宮山古墳だが、8年前に一度訪れたことがあるので感動はないだろうなと、姫路市埋蔵文化財センターの裏手の宮山古墳公園に到着。お弁当も持たずお腹も減ってきたし、これで切り上げようかなと思いつつ、この後どうしようかな。

宮山古墳公園に到着
古墳へは右の道を登る

13:11
 尾根の肩の自然地形を利用して築かれた円墳の宮山古墳は、どこまでが自然地形でどこからが人工地形なのか判別としない。おそらく目の前の階段あたりからが古墳のかな。直径30mもある大きな古墳なのに、木が邪魔をして全体を見る事が出来ないのが残念だ。

直径30mの円墳の宮山古墳

 古墳の頂上に登ると、長方形に義木に囲まれた一角があるが、その中には特に何もない。この区画の下に竪穴式石室があり、その真上に立てないようにしているのかな。

宮山古墳の頂上には柵で囲まれた一角が
その中にはこれと言ったものはない

宮山古墳 県指定史跡(昭和48年3月9日指定)

 5世紀後半に築かれた直径30mの円墳で、尾根の突端部に位置している。昭和44年と47年の2度の発掘調査の結果、並行する2つの竪穴式石室の下にもう1つの竪穴室があることがわかった。土器のほか、刀・鏡・装身具など多様多種の遺物が出ました。中でも二対の垂飾付耳飾りや金象嵌大刀などは全国にも類例のない貴重なものである。

 出土品は一括して平成10年6月30日に国の重要文化財に指定された。

平成11年3月 姫路市教育委員会

13:20
 宮山古墳の表側に「姫路市埋蔵文化財センター(愛称:まい姫)」がある。2005年(平成17年)1月に完成し、名前の通りに姫路市内から出土した埋蔵文化財を整理・調査・研究、展示・公開し、収蔵するための拠点施設だ。

 姫路市内には安藤忠雄氏設計の打放しコンクリートの公共建築物が多数あるが、この建物は姫路市内に本社をもつ小野設計が設計したものだ。今日は企画展の入れ替え時期のため、展示室には入れないが、この建物を見ることが今回の「姫路古墳ロード」を歩くの一つの目的だったのでかまわない。

姫路市埋蔵文化財センター「まい姫」


坂元山古墳群

13:47
 残る古墳はあと二つ。どこかに食べ物やさんがないか、コンビニがないかと探しながらテクテクと歩いていると、坂元山古墳群の入口に着いてしまった。もう今日のお昼ご飯は諦めよう。

 でも、この山は北に八重鉾山構居、中央東側に宮山古墳、そして南には坂元山古墳群があるが、全て違う山の名前が付けられている。

三つ池北の坂元山古墳群入口

13:50
 最近切り開かれた感じがする道だな。そして歩く人のいない道だな。でもやぶ蚊だけは健在だな。

坂元山古墳への道

13:53
 写真を撮らなければ1分もかからない距離に、坂元山古墳群3号墳があった。私は古墳マニアではないし、小心者でもあるので、あえて薄気味の悪い暗い穴の中を覗き込もうとは思わない。

 これも帰宅後に調べたところだが、この天井石の下には長さ4m、幅1.8mほどの玄室があると言う。さらに山を登ると、大石が転がっていたが古墳とは思わず、写真も撮らなかったが、それが坂元山古墳群4号墳だった。

坂元山古墳群3号墳


阿保古墳群(阿保の百穴)

 坂元山古墳から車道をちょっと引き返し、特別支援学校への道へ入るのが阿保古墳群への近道なのだが、古墳巡りに疲れたの飽きたのか、紫光学苑の方へ行ってしまった。その上、近道をしようとして新興住宅地アクティタウン内の外界から隔絶された迷宮のような道をあてどもなく彷徨うわで、もう大変。

14:24
 やっとのことで、1車線幅もない狭い道(「姫路古墳ロード」マップの実線道)に出ることができ、豊川稲荷神社に到着。  
豊川稲荷神社

14:25
 豊川稲荷神社の西に「阿保古墳群 西地区」の案内板があり「阿保古墳群(阿保の百穴)」の石碑も立っている。

 「姫路古墳ロード」マップの豊川稲荷神社から南東の「西地区」表記への実線道は、この先が相当するのだが暗いし狭いし草生しているし、進むのはもう無理。

14:29
 立て看板もあり、豊川稲荷神社の中にも古墳がありそうと入っていくと境内の東側に赤鳥居に守れれた阿保古墳群2号墳があり、これも封土が失われている。

阿保古墳群2号墳 正一位天光玉勝大神

14:37
 阿保古墳群も1つ見つけたし、本日の業務は終了。もう帰ろうと姫路市営東阿保住宅の裏手を進んでいくと、またまた案内看板と石碑があった。石碑は阿保の百穴にちなんだのか、穴が開けられている。

市営東阿保住宅裏の阿保古墳群石碑

14:39
 そのまま地道を進むのかと思えば、どうしたわけか左手の草むらの向こうに「姫路古墳ロード」の立て看板がおいでおいでしている。もうこうなったら毒を食らわば皿までと突き進む。でも看板の上には外灯があったりと、「姫路古墳ロードを歩こう会」の開催日だけは、この草むらのなかに道が出現するに違いない。

何でこんなところに案内板があるのだろう

14:40
 道なき道を草を掻き分け進むとばかり思っていたが、すぐに車も通れそうな山道に出合った。

この道はどこから来てどこへ続くのだろう

14:42
 華厳寺が山上にある麻生山(小富士山)とアンテナ鉄塔がたくさん立つ仁寿山の間の峠を目指して道は伸びている。

左手が麻生山、右手が仁寿山になる

14:45
 足元がジュクジュクの結構広い平坦地、電柱が続いていたので、住宅地でも造成しようとしたのか、の先に「姫路古墳ロード」案内看板が立っている。

 案内看板の矢印は右後方へ引き返すように進めと指示しているが、正面も行けそうなので、いつか再び麻生山・仁寿山へ登るときに参考になろうかと少し登ってみる。

ここは「姫路古墳ロード」マップの
阿保古墳群西地区と東地区の間のV字型の道の
一番南側になるのだろうな

14:47
 峠を目指し義木階段道を登っていくと「左麻生山行者道」と刻まれた石柱が現れ、峠に至る道であることを確信し引き返す。

麻生山・仁寿山の峠へと登る道

14:53
 峠への道を下り、豊川稲荷神社へ続くはずの道へ入る。「姫路古墳ロード」マップで火山の山裾の道が破線道だったので、この道なら点々道であって然るべきだが、なぜか実線で示されている。もっと道の実情に合った表現方法をとってもらわないと、現在位置の把握に支障をきたしてしまう(事実、歩いているときは、この道が豊川稲荷神社へ続く実線道とは思っていなかった)。

豊川稲荷神社に続く道に入った

14:55
 両側に笹が茂る狭い道に、1mほどの段差ができている。もともと階段が設けられていたようだが、大雨でえぐれ取られてしまったようだ。段差を飛び降りることはできるだろうし、反対によじ登ることもできそうだ。でも、楽しかった??古墳巡りの最後に服を汚すのもなんだし、もうここから引き返す。

笹に囲まれた細道に1mの段差が生じていた
ここから引き返す

14:56
 せっかくここまで来て、何も収穫なしに帰るのも癪だ。途中にあった「姫路古墳ロード」案内板の位置の、細い流れの向こう側に「11」と書かれたプレートが見える。古墳らしきものは定かには見えず、行くときは無視したが、一応念のために行っとくか。

ここも「姫路古墳ロード」の実線道です
先に進むと豊川稲荷神社に着くと思われるが未確認

15:00
 慎重に斜面を下り、小川を渡り「11」のプレートの所まで行くと、確かに古墳があった。そのほとんどが草むらに覆い隠されどこが古墳なの状態だが、これも帰ってから調べたら長さ3mほどの玄室が存在するすると言う。草生した古墳だが、その規模・保存状態は外観からは分からない。

長さ3mの玄室が隠されている阿保古墳群11号墳

 以上で私の「姫路古墳ロード」巡りは終了。

15:21
 四郷中学校前バス停まで戻ると、1時間に1本しかない姫路駅北口行きのバスは、なんと9分後に到着予定。やぶ蚊に刺されまくりの辛い苦しい「姫路古墳ロード」巡りではあったが、最後も小さな幸せを噛み締めることができ、ハッピーエンドで締めくくることができた。


おまけ きのこの女王「キヌガサタケ」

 場所を明らかにすることはできないが、今回の行程中に、きのこの女王「キヌガサタケ」に拝謁する機会を得た。古墳はおろか、きのこに関しても趣味の対象外だが、一目見てキヌガサタケだと分かった。

 見てのとおり、竹薮の中に真っ白なレース状のスカートをつけた、エレガントな姿のアミガサタケを見出したとき感動し、小さな、いややぶ蚊に刺されながらも中くらいな幸せを感じた。

きのこの女王「キヌガサタケ」

 というわけで、「姫路古墳ロード」は1月に行われる歩こう会に参加するか、その前後の整備が行き届いたときに限り快適に歩けることが分かった。間違っても温かい時期に訪れるのは愚の骨頂だ。



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